三須原 弐那
さすわら にな
ここにいても、いなくてもいいんです。
たった一つの願いさえ叶えば、それで。
「優」の一言で収まってしまいそうな少女だ。従順で、真面目で、声を荒げず、感情を昂らせることもなく、言わねばならぬことだけはちゃんと言葉にした。世話係からすれば随分と手のかからない子供だっただろう。昔は女の子らしく長かった髪も、世話をする誰かがなかなか乾かないといえばそれだけで全部切ってしまった。自分という色がとことんない様で、その実この少女はたった一つだけをその胸に抱いて生きていた。教祖や他の信者も知らない少女だけの秘密だ。ここに来るまでの思い出をすべて失ったと言われている少女の唯一覚えているもの。血塗れの居間、ゴミのように転がされる亡骸、伸びてくる朱色の手。「生きろ」という最上級の呪い。
恐らくは、家族はXに殺されたのだろう。何にも憶えていない少女は、父親と思しき人物の最後の言葉を守ってここにいる。ここで生き残るのに一番大事なことは、恐らく従順であること。つまり、生贄になれるほどの「優」を貰うこと。だからこそ、今この少女はほとほと困っている。生贄になれるということは、生贄にされるまでは確実に生きていけるのだろう。けれども、そのあとはどうやって生きていればいいのかわからないのだ。贄になれば死んでしまうのだから。
思わないです。(鈴と澄んだ音がすぐに出た。微笑みを浮かべて問うた相手を見つめれば、即答されたことと、その答えに随分戸惑っているようだった。この部屋には今二人きり。それでも肩を引き寄せ声を潜める彼女に、少女は心底不思議そうな顔を浮かべる。「なんで?あなたびっくりするくらい従順だけど、信仰深いってわけでもないでしょ」今度は少女の方がびっくりする番だ。)何でわかるんですか?(そのまま話す音量で言えば声を潜めるようにとがめられたので、ひとまず笑んで謝罪を告げる。彼女の話はあいまいだった。瞳が教祖の向こう側を見ている。声に信仰が乗ってない。諸々のこそこそ話を興味深げに聞いて、なるほどと頷いて見せるのだ。)すべて当たっています。あなたはすごい人ですね。(今度こそひそやかな声で返して、二人身を寄せ合ったまま問いかける。純粋な勝算はされど、彼女を満足させる答えにはたりえなかったようだ。「あっているならなんで」震える彼女の声からは動揺が垣間見えて、なるほどこれが声に乗るということかと、見当違いに感慨深い気持ちになるんだろう。)……私は、生きていたいので。(怯える彼女を落ち着けたくて、初めてともいえるくらい正直に、気持ちを伝えてみた。いよいよ訳が分からないといった彼女の顔が、分からなくて首を傾げる。胸元の黒いリボンがふんわりと揺れて。)……生きていく為には、従うことが一番じゃないでしょうか?(澄んだ声色は徹頭徹尾変わらずに、目の前の少女だけに向けられる。彼女の動揺が少し違う色になるのを感じ取ったが、今の少女にはそれが得体のしれないものを見る恐怖の色だとはわからなかった。走り去っていった彼女は、数日後に動かぬ形で見つかった。逃げ出そうと一人計画し、失敗に終わったらしい。それを聞いて思うのだ。――ああ、やはり自分は間違っていないのだ、と。穏やかに笑む。頭の隅で、今日も呪いの音が鳴っていた。)