乙無 白亜
おとなし はくあ
ここは、やさしい。あったかい。しあわせ。
だから、ここいる。やくそく、まもるの。
容貌こそ目立つものの大人しく、そしてつまらない娘だった。感情の起伏に乏しくかおばせは何十年と沈黙を保ち、進んで誰かに話しかけるようなこともなく、大勢で過ごしていても団欒の輪に加わろうとはせず独り隅っこのほうで本を読んでいることが殆ど。しかし優しくしてくれる人間にはとてもよく懐き、妄信的ともいえるほどに従順に従った。特にXの信徒は『てんしさま』と呼ぶほどに妄信しており、“復活の日”の贄に選ばれたことは幸福なことであると信じている。今は勉学に励んでいるとはいえ、人と接する機会がなかったために言葉遣いはまだどこかたどたどしく、身振り手振りで意思の疎通を図ることが多いだろう。
アルビノ。生まれついて体が弱く、髪は白く目は赤い。両親は自分たちとはかけ離れた娘の容貌を気味悪がって、生まれて間もないむすめを児童養護施設へと預け入れた。しかしそこの環境は劣悪極まりなく、空腹で飢えることも虐待を受けるようなこともなかったが、狭く暗い部屋での軟禁状態を強いられ誰とも接する機会もないまま長い刻を過ごす。宗教団体Xの信徒が養護施設を訪ねて来て数多の子どもを引き取っていったのは、預けられてから10年以上も経った寒い冬のことだった。信徒に手を引かれ、初めて外へと出た瞬間のことをむすめは後にこう語る。あの日、てんしさまに出会ったのだと。
にげ……?(きょとり。言葉の意味を理解しかねて、紅色の大きな瞳がゆっくりと瞬いた。訂正。言葉の意味は、理解出来る。でもどうして「ここから逃げたいと思わない?」という言葉が傍らの少女の口から出てくるのか、まったくわからなかったのだ。不思議そうに瞬きをしたむすめのかおばせを目の前の少女はどこか不安そうに見つめている。きっと、言葉を待っているのだろう。少し前まで言葉を聞いたこともなく、言葉を喋れなかった頃を思えば随分と喋れるようにはなったけれど、でも彼女に返してあげられる言葉はあまりなかった。)……考えたこと、ない。(むすめにとってここはあったかくて、明るくて、優しい天使さまの居るしあわせなところ。寧ろ目の前の少女がどうして逃げたいと思うのか、そのことについて考えたほうがいいと思ったから、じぃと正面の黒目を見つめた。不思議を伝えるように、こてりと首を傾げる。)どうして、にげたい、思うの?(疑問を口にすると、真っ直ぐ見つめた黒い双眸が揺れはじめた。哀しいことでもあったのだろうか。少女の表情を読み取ろうとしたけれどかおばせを逸らされてしまってはそれも叶わず、細く艶やかな長い横髪を見つめることしか出来なかった。もしかしたら気づかない内に、なにか気に障ることを言ってしまったのかもしれない。こういう時はなんていったらいいのか、双眸を伏せて考える。ふたり以外部屋に誰もいなければ、互いに口を閉ざした途端に部屋には沈黙が横たわる。「だって、このままだと私たち、贄に捧げられて……」静謐な空間に、細く震えた声が落ちた。少女の声だった。誰が聞いても怯えているとわかるのに、むすめにはそれがわからなかった。正確にいえば、少女の心がわからなかったのだ。すぅ、と小さな唇が言葉を紡ぐために息をする。)にえ、は、しあわせなこと。てんしさま、言ってた。だから、しあわせ。そう思うが、しあわせなの。(自己暗示でもない。言わされているのでもない。無表情のはずのむすめのかおばせがほのりと色付いて見えるほど、紡いだ言葉は心からの言葉であるとわかるほど、甘く恍惚とした響きを宿していた。)わたし、やくそく、した。てんしさまと。ずっと、ここにいるって。だから、にげない。どこも行かない。(『これからは教祖様の礎となるべく生きなさい』あの狭い部屋から連れ出された時。あの時はなにを言われているのかわからなかったけれど、言葉を教えて貰った今ならその意味がわかるから、それを守ることも出来る。茫然としている少女を後目に、むすめは詠うように疑いなく囀った。この壁の中は幸福。贄も幸福。宗教団体Xは救いの天使さまであると、妄信している。)