西風 千鶴
ならい ちづる
ずっと信じて、待っていたの。この日を。
あなたを――たったいちどきりの、奇跡を。
真面目で温和な、いわゆる優等生タイプ。行儀よく御し易い子ども――それが大人から見た西風千鶴だ。従順に笑む唇は勿論、Xへの不満など紡がない。けれど静謐なまなうらには、煮えたぎる反逆が隠れていた。“その日”に備えて図書室に通い、あらゆる知識を貪った。逃げきるために、生き抜くために、役立つ知恵が欲しかった。すっかり納得したふりをして、自分も家族も助かる未来を、はじめからずっと模索している。奇跡を信じる狡猾な少女は、人知れず爪を研いでいた。――とはいえ、所詮は17歳。運動はてんで苦手で非力、理論武装ばかりがご立派で、実践経験にも乏しい。計算通り進まない“外”では、お荷物でしかないかもしれない。
両親に持ち掛けられた話を発端に、最終的には自ら志願してX[イクス]に入信した。3年前、14歳のときである。千鶴の身柄と引き換えに得た幾ばくかの金銭はすべて、心臓を患う兄の治療費に充てられた。加えて教団側からは入院先や腕のいい医師を融通したことを仄めかす発言もあり、有体に言えば恩を着せられているような構図。真偽のほどは定かではないが、まだ10代の無知な少女を黙らせるには十分だった。自分がXにいることで、役割を全うすることで、兄はよい治療を受けられる。病気もきっと、すっかり治る。少女は祈り、信じていた。それが心の支えだった。お兄ちゃんだけでも健康で、しあわせなおとなになってくれたら。この生涯をささげるのだから、そのくらいの報いあったっていい。
≪肘から親指2本分横≫……≪力を入れてギュッと押す≫……(中庭。古い樫の木の根元に座り、少女は熱心に本を読んでいる。内容をぶつぶつと復唱し、動きを真似るように腕を動かして――そこで声をかけられた。「今度はなんの勉強してるの?」同世代の信徒の少女だ。)ひろちゃん。これ読んでたの、『だれでもできる!護身術入門』。(表紙を掲げて見せる。隣に座るかと首をかしぐと、少女は頷き腰を下ろした。「もう理科は飽きちゃったの?心理学は?」こちらの手元を覗き込みながら、質問を重ねる声は明るい。けれど――)理科じゃなくて物理ね。難しすぎて疲れたから、この本で気分転換中。………。ね、なにかあった?すこし顔色が悪いみたい。(じっ、と見つめて短く尋ねる。表情がいつもより少し、強張っているように見えたから。数秒の沈黙を挟み、少女はしずかに唇を開く。千鶴はさ。ここから逃げたいって、思わないの?)………、――…どう、だろうね?(口元だけでちいさく笑んで、そう返すのでやっとだった。大人となにか揉めたのだろうか。あるいは子どもに尋ねられたか。“どうしてここから出られないの?”“ずっと、一生、出られないの?”心臓を這う絶望の指先。普段は意識せずにいられても、ふとした隙に忍び寄るそれ。当然千鶴にも覚えがある。)……もちろんわたしも、普通に高校行ったり、バイトしたり、できたらなって思うよ。でもお兄ちゃんの治療費のことで、Xにはすごく恩があるし――わたしがここにいることで、お兄ちゃんが元気になれるなら、……そんなに悪くもないかなって、思ってる。(「“復活の日”の贄の話は、入る前に知りたかったけどね。」おだやかに紡いだその返答は、本心でもあり、嘘でもあった。悪くはないと思っているけど、最善じゃないと思ってもいる。もしも、仮に、万にひとつ、ここから逃げ出せるチャンスがあれば――わたしは迷わず、手を伸ばすだろう。そのために知恵を蓄えてきた。だれにも言わず、備えてきた。)………ひろちゃん、(少女の冷えた手にそっと、自身のそれを重ね合わせる。未来に怯える同胞に、ぬくもりを分け与えるように。わずかでも慰めになれるように。彼女を出し抜きたいわけじゃない。みんなのことは、とても好き。だけどわたしは自分ひとりを、生かすことで精一杯で――)………、(ごめんね。本当のこと言えなくて。一緒に逃げようって、言えなくて。声にならない懺悔の代わりに、華奢な指先をきゅ、と握った。)