乙無白亜〆 ♦ 2021/02/20(Sat) 22:40[96]
( ぱちん。泡沫が弾けたように、ふと意識が浮かび上がる。寝ぼけまなこを瞬かせながらかおばせをあげると、ほんのり薄暗い部屋が紅玉に映りこんだ。しんと横たわる静謐が、待ち人戻らずを雄弁に語っている。──そうだ。彼の帰りを座って待っているうち、うとうとして眠ってしまったのだった。うまく冷やせていなかったみたいで、なんだか腫れぼったいように思う瞼を指先で確かめながらテーブルの上に置いていたスマホを片手で手繰り寄せる。着信、メッセージともになし。彼から連絡がないことはもちろん友達に至っては既読にすらなっていなかった。またしても胸がわざわざ、嫌な感覚にとらわれそうになったから、テーブルからのろのろと身体を起こして窓のほうへと足を進め、そっとカーテンを開け放った。)……あめ、降ってる。(薄い硝子に隔てられた向こう側に光を放つ蒼穹はなく、鈍色から落ちる凍雨が白く空を染めていた。いつだったか、雨はお空の上にいる神さまが地上を浄化するために流すものなのだと聞いたことがある。ならばこの雨はなにを浄化し、洗い流してくれるものなのだろう。コンソメスープの鍋を火に掛け、グループLINEに一言今日の講義は休む旨を書き込んでから朝のルーティンを開始。室内干しの準備を整えながら洗濯物を回し始めた丁度その頃、訪問者を告げる呼び鈴が鳴った。なにか宅配を頼んでいただろうかって首を傾げつつ、モニターの確認に向かう暢気な背中に無慈悲な現実がふりかかるまであと少し。忍び寄る崩壊の足音にはまだ、ちぃとも気付いていなかった。)
直接お礼、言いたかったの。 となりを助けてくれて、ありがとう。(家入硝子より近嵐隣の容態を聞かされてから、幾許かの刻が流れた。漸う面会謝絶が解かれるとの連絡が入り、少しの緊張とともに彼の病室へ向かって歩いていると、偶然か必然か、彼の命を繋ぎ止めてくれた新田新とばったり鉢合わせた。複雑そうに眼差しを逸らされたのは、彼の容態を知っているからなのだろう。それでも構わずもう一度笑顔でありがとうを伝えたなら、いよいよ彼の病室の前に立つ。扉に手を掛ける寸前、ふと伸べた指先の震えに気付いてしまったならてのひらを握りこんで細指を抱き締めた。だいじょうぶ。言い聞かせるように反芻する。“はじめまして”をもらう覚悟も、告げる覚悟も、家入に容態を聞かされたあの瞬間から既に。お見舞いの花束を抱えなおして、ひとつ深呼吸。よし。今度こそ意を決して指を掛け、ガラッと病室の扉を開いた。──真っ白な病室のなか、変わらない笑顔がそこに在る。頭に巻かれた痛々しい包帯に眼差しが奪われそうになるけれど、鮮烈な紅が視界に飛び込めば一度だけ俯いて、震えそうになった唇をぐっと噛んだ。かおばせをあげた時、ちゃんと笑っていられるように。)そう、はくあ。乙無白亜。 生きてさえいれば、記憶だって、きっとどうにかなるよ。(昔日の出逢いを彷彿とさせる遣り取りが愛しき憶い出を鮮やかに蘇らせるから、眦をさげて紡ぐのはいつか彼からもらった受け売りだ。お見舞いにと持ってきた淡紅のスターチスを窓辺に置かれた花瓶に活ける。蒼穹のもと陽に透かすと硝子のように光を吸収し淡く色付くむすめの紅色は、ともすれば活けた花の花弁と似た色をしていた。鞄から祈りを綴った寒色の折り鶴を取り出して花瓶の横に羽ばたかせながら、ページを捲る音を聴けば「いいよ」ってかろく笑って、なにから話そうかと考えながらベッドサイドの椅子に座った。 あなたが憶えていなくてもわたしが憶えている。だから白紙のページに何度だって色を塗ろう。記憶がなくなっても、あなたが歩んだ軌跡は消えたりしない。ムートンブーツも、天使のオルゴールも、うさぎのぬいぐるみも、四つ葉のクローバーも、祈りが綴られた折り鶴も。今ここに居る乙無白亜だってそう、あなたが歩んだ軌跡のひとつなのだから。)
(記録:2018年11月20日。乙無白亜、大学を中退後、昼夜置かずダブルワークを開始。2018年11月27日正午。リビングで倒れているところを家入硝子に派遣された新田明が発見。過労の診断が下されるも、仕事は現今継続中。)
──……、……。(薄暗い部屋に足を踏み入れるなり明かりもつけず、幽鬼のような足取りで寝室へと辿り着くなり上着も脱がずベッドに倒れ込んだ。時刻は草木も眠る丑三つ時。掛け持ちの仕事はいずれも週に2回の休みを取っているとはいえ、そのどちらも彼の見舞いやら生活必需品の買い物に充てるため休まる暇はない。もとから身体が弱かったとは言え、たかだか一週間続けただけで過労と高熱に倒れた日には家入に苦言を呈されもしたけれど、無謀はもとより承知の上。だって無理をおしてでも仕事を掛け持ちしなければ、戸籍も学歴もなきに等しきむすめがこの部屋を借り続けながら生活を続けるだけの給金は稼げなかった。加護を離れて社会に飛び出してからというもの、容貌を見世物のようにされることも、過度な日除け対策を揶揄されることも少なくなくて、如何に自分が恵まれた環境で育ったのか知った。もぞりと手を動かして、上着のポケットからスマホを取り出す。タップして開いたメッセージ画面は10月31日で刻が止まったまま、高校の友達も、大学の友達も、渋谷に行くのだと言ったきり連絡がつかない状態が続いている。ひとりだった。) かお、あらわなきゃ。(思い出したように呟いて、これ以上深いところに沈んでしまわないようにゆっくり起き上がる。暗闇に慣れた眼は明かりを必要とせず、重たい上着をハンガーに掛けてから髪をひとつに括った。黙々と眠るための準備を進めていくなか、ふと天使のオルゴールが視界の端に入ってしまえば懐かしさに手が止まる。そういえば最近聴いてなかったなって、なんの気なしにネジを巻いてしまったのがいけなかった。流れる懐かしい旋律が昔日の憶い出を連れてくる。わたしを知っている彼の笑顔が蘇る。 となりに頭を撫でられるのが好き。髪をぐしゃぐしゃにされたって、指先から伝わるぬくもりが愛おしさを伝えてくれるから。となりの手が好き。大きくて、傷だらけで、ちょっぴり不器用だけれど、世界で一番優しい手なんだって知ってる。となりの眼が好き。蒼穹を切り取ったみたいな澄んだ色は、見つめられると吸い込まれそうなくらい綺麗なの。となりに名前を呼ばれるのが好き。白亜って名前を呼ばれるだけで、心がほわほわ、あったかくなる。となりの体温が好き。ぎゅって抱き締められるとあったかくて、心臓の音が聞こえて、泣きたくなるくらい満たされるの。となりの笑い声が好き。明朗に響く元気な声にどれだけのひとが励まされてきたのか、わたしは知っている。となりの笑顔が好き。不安も恐怖もぜんぶ吹き飛ばしてくれる太陽みたいな眩しい笑顔がだいすき。だいすき。だいすき。今も。)となり、(ぎゅって手を握ってほしい。まっすぐ見つめて、白亜って名前を呼んでほしい。あたたかいその腕で抱き締めてほしい。当たり前の日常に在る些細な出来事にしあわせだねって一緒に笑って、それで 、)……わたし、こんなに我儘、だった。(望まなくてもいつも彼が惜しみなくくれていたものだったから、全然気が付かなかった。自分がどれだけ彼に愛されていたのかも。吸い込む呼気が淡と震える。枕元で見守ってくれているうさぎのぬいぐるみを引き寄せて、強く強く腕の中に閉じ込めた。夜のしじまにとけるあえかな嗚咽を包むように、オルゴールの旋律が薄闇にやさしく響く。零れ落ちる弱音は全部暗闇の中に置いていって、また明日から笑えるように頑張ろう。歩いていこう。今まで彼に守られていた分、今度は私が彼を守るために生きていくんだ。それがわたしの、星に願った最初の我儘なのだから。)
はい、ありがとうございます。なるべく早く、行けるように──…えと、お礼?も、今度、ちゃんとします、ね。(ひんやり冷たいスマホを耳にあてながら、イルミネーション輝く並木道をひとり歩いていた。バイト先の居酒屋に仕事の時間に少し遅れる旨を連絡し、店長にはうまいこと伝えておくからお礼もよろしくねと返る先輩の声に感謝を伝えて通話を切る。相変わらず仕事に追われる毎日だけれど、続ける内に周囲の理解も得られたお陰か今ではすっかり慣れたものだった。2018年12月25日。季節は師走へと移り変わり、クリスマス当日。彼に贈るプレゼントはさんざん悩んだ結果過日食べさせてあげられなかったハンバーグにしようと思い至り、担当医師の家入硝子に相談して、今し方病院へ届け終わったところだった。彼へのプレゼントと称して家入に手渡した紙袋には、コンソメスープにポテトサラダ、それからチーズをたくさんいれたハンバーグを詰めたタッパーと、メリークリスマスのカードを下げた寒色の折り鶴も添えて。盛り付けとご飯は病院側で用意してくれるとの言葉に甘えた。今日は仕事もあるからと内緒のプレゼントを託したあとは彼のかおばせを見ることもなく帰ってしまったけれど、今頃はリハビリに励んでいる頃だろうか。そういえばクリスマスは彼が任務で居ないことのほうが多かったっけと思い返せば、なんだかいつもと逆になっちゃったなって自販機のボタンを押しながら寒色のニットマフラーに口許を埋めて笑った。早いもので、彼と出逢ってからもう5年もの月日が流れていた。)変わらない、なぁ。(そびえ立つ大きなもみの木を彩るイルミネーション。青白黄色、順繰りに輝く光はやっぱりお星さまみたいにきらきら綺麗に紅玉に映るから、感嘆の吐息が白くけぶった。この光景だけは、きっとどれほど歳月を重ねても色褪せないのだろう。購入したコーンスープの缶で指先をあたためながら、思い出の地に立っている。)メリークリスマス、となり。(プレゼント、喜んでくれるといいな。来年のクリスマスは、一緒に過ごせたらいいな。てっぺんでいっとう輝くお星さまを仰いで想いを馳せる。ぴかぴか閑かに瞬きを繰り返していた星がひとつ、流れて消えた。)