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【3】(長者の万灯より貪者の一灯)

梵一期〆 ♦ 2021/01/19(Tue) 19:31[50]

(訪れた部屋は、もぬけの殻だった。別にこれが初めてでもなかったろう。ちょっと外へ出ているとか、彼にだってそういう時はあるはずだ。だから、こうしてかくれんぼするみたいに探すのだって、日常のひとつ――。そっと息を潜めて、ドアにぺたりと耳を寄せていた。通り掛かりに拾った僅かな声の持ち主を違えるはずがない。いいや、彼だからこそ、拾えた声だったと言ってもいい。盗み聞いてびっくりさせてやろう、そういういたずら心と好奇心に従っての行動だ。にたりと厭らしい笑みまで浮かべ、今にもまろび出そうな笑声を両の手で覆うことで殺す。さあて、どんな話だろう。瞼を落として集中した耳にまず届いたのは「昇級」だ。それも、三級を飛び越えた二級! まるで己のことのように湧き上がる喜のまま、飛び出して、やったね、おめでとう、と、ハグのひとつでもしたいくらいの高揚感はしかし、一瞬にして冷や水を浴びせられる。縫い留められてしまったみたいにうまく足を動かせない、その癖すぐに、意思を持ったみたいに勝手に歩み出す。こんなに喜ばしいことを知ったのに、ああ、どうして――)ショックなんだろ………。(ぽつりと溢した音は静寂に溶けた。廊下を抜けて、階段を降りて、ずんずん進んでいく足が、外の砂利を踏みしめて漸く静止した。落ちた瞳は小さな石つぶを映しているようで、なにも見ちゃいない。まだ太陽は高い位置にいるのに、すっかり夜になってしまったような、暗くて寒い嫌な心地がする。ここに来てからはすっかり忘れてしまっていたけれど、よくよく知った、それもXでは常に共にあった感情だ。)……そっか、さみしいんだ。さみしいよ、アトジくん。(これまでの日々がすべて任務の上にあったものだったとしても、彼も一期と同じように楽しんでくれていたことを疑う余地などない。仮にそうであったとして、こういう期待をするのは得意だ。むしろ護衛という便宜の元、一緒にいれるのならそれでもよかった。――しかし、それではあまりも、)わがままだね、あたし。(感情を発散させようと爪先が地を蹴った。ザッ、ザッ、ザッ――衝撃に合わせて飛び散る砂利を見つめて、覚悟を決めなければと目頭に力が入る。彼が護衛の任務を解かれたなら、“お試し”も今日を以て終了だ。その後の選択は? 言うまでもない。クリスマスの夜、“ママの娘”は死んだのだ。もっと前に死んだようなものだったけれど。もうXには戻らない。では、歩む道は? それはまだ不明瞭。けれど、確かに避けてはいけないことが、ひとつある。)パパは、どうしてるかな。………生きてる、かな。(母の手を解くより、ずっとおそろしいことだった。Xの人間に破棄されていると思っていた手紙は、そうじゃない可能性だってもちろんあったのだ。父がもう諦めてしまっていたとか、新たな家庭を築いているとか、――もう、宛所がないのだとか。爪先は力なく蹴りつけるのをやめた。冷気に触れたからというには急激に温度の下る手のひらをぎゅっと握り込む。熱を戻すために、意思を確固としたものにするために。彼が嫌がろうと駄々をこねようとも、次のステップへ進んでゆくのに、うずくまっている訳にはいかないから。確かめなければ。書いては破ってを繰り返し続けた手紙が今夜ついに、世を渡るだろう。不自然に穴ぼこが開いた地を砂利で埋めて踵を返すと、不意に、無理だなんだと宣う声がリフレインする。よく知ったトーンで、見てもないのに表情までもが目に浮かぶ。――ふふっ。こんな単純なことで、外はもう、ただしい明るさを取り戻していた。)あっ! えっと……新田、さん? 買い物に行きたいんだけど行けますか? 行けなかったら代わりに買ってきて欲しいものがあって―――(クリームチーズとグラニュー糖、それから溶き卵に、薄力粉、最後に生クリーム。いつか、と頭の片隅にメモした材料をこんなに早くねだることになろうとは。補助監督のひとりをとっ捕まえて告げると、当然に訝しんで眉を寄せられはしたけれど、理由を添えれば屈託のない笑みと首肯をもらえたはずだ。飛び込んで「おめでとう」と「いってらっしゃい」を言えなかった代わりに、飛び切り美味しいチーズケーキとほんのちょっぴり成長した“あたし”で、「おかえり」と彼を迎えるんだ。)

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