治葛静音〆 ♦ 2021/01/20(Wed) 23:16[46]
(話を聞いてしまったのは、偶然だ。たまたま足を向けた休憩室で、深刻な空気を感じ取り咄嗟に姿を隠したのが良くなかったのだろう。入口付近にぺったりと背をくっつけて、出ていくタイミングを失っている間に話は自分を置いてけぼりにしてあっという間に進んでいく。)……昇級。(――これはいい。元々、彼が何かしらの任務でXにやって来たのだろうということはいくらポンコツな頭でも理解していた。どんな理由があれど、彼が自分を助けてくれたのは事実だ。寧ろ、過日の救出劇が彼の明るく栄誉ある未来の足掛かりになるのならば万々歳。生贄になっていた甲斐だってあろうもの、というのは流石に言い過ぎか。けれど続く言葉、)すっ、死ぬ?えっ?(「すぐ死ぬよ」――これはよくない。昇級すれば危険な目に遭う可能性だってぐっと高くなるのだろうと察すれば、今すぐ飛び出して待ってやめてと叫びたい衝動に駆られる。いっそ殆ど飛び出しかけたその瞬間、ぴたりと足が止まった。もし、彼が死んだら。もし、彼が護衛から外れたら。もし、彼がいなくなってしまったら。――自分は、どうなるのだろう。例えば高専から放り出されたってどうなったって、何とか生き延びてやろうという泥臭い根性は持ち合わせている。けれどそれは、彼が共にいてくれるのならという仮定の上に全て成り立つのだ。優しい母がいつか迎えに来てくれるのだと、ただそれだけを寄る辺としていた女を今支えているのは、彼だ。彼の存在だけが、今日を生きる希望をくれている。過日、此処にいてくれるのだと彼は言った。暗闇から救い出してくれた彼の手に、文字通り縋るようにして高専まで戻って来たことはきっと忘れられない。この手を引く温もりにひどく安堵したのに、)……やだ。(小さく零して、ぎゅうと両手を胸元で握りしめる。優しくされればされる程、途端に不安になるというのは矛盾した気持ちだろうか。自分の存在が彼の重荷になって、いつかやっぱりやめたと放り出されてしまうかもしれないことが、怖くなった。 だって母は、そうやっていなくなってしまったから。続けて耳を欹て欹てていれば、彼の口から零れるのはどこまでも優しい言葉だった。あたしのことなんて、気にしなくていいよ。心配しなくていいよ。くろ太郎が生きてくれてたら、それで。そんな言葉が涙と共に溢れそうになって、きゅうと唇を噛み締め頭を振った。これ以上ここにいては駄目だ。今彼と鉢合わせても、どんな顔をすればいいか分からない。そうして元来た道を小走りで戻る道中、心臓はずっとばくばくとうるさく拍動を繰り返していた。そうして部屋に戻って来るのと、ポケットの中でスマホが震えるのは殆ど同時。画面に表示されたその人の名前にうっかりスマホを取り落としそうになりながら、シンプルな文面に目を落とす。)……う~……、っ。(たった一文だ。されどそれだけで、たまらなく嬉しくなってしまう。優しくされることが怖いと思いながら、それでもどうしたって、こみ上げる情動を抑えきる術は知らなかった。じわりと熱を持った涙腺から、涙が静かに零れ出す。部屋の扉に背を預けるようにしてしゃがみ込み、泣きながらアプリに文章を打ちこむ姿は傍から見れば滑稽かもしれない。「行ってらっしゃい!」「ヘマしたら笑っちゃお」最初はたどたどしかったスマホの操作も、彼のおかげでもうすっかりお手の物。スタンプをぽぽんと連投する余裕だってある。けれど、「いい子にしてるから」そこまで打って、ぴたりと指が止まった。何と続ければいいのだろう。自分でも整理しきれないぐちゃぐちゃの感情がそのまま溢れそうになるのを必死に堪えて、代わりに続けたのは「怪我しないでね」なんて当たり障りのない言葉。送信し終えればぽいとそのあたりにスマホを放って、膝に額を押し付けるようにして目を閉じた。暗いまなうらに翻るのは、ずっと忘れた振りをしていた母の記憶だ。本当は、自分を愛してくれている優しい母などもういないことは、とっくの昔に知っていた。貴方がいなければよかったと泣く母の姿を思い出して、ぎゅうと胸の奥が締め付けられる。)……くろ太郎、………いい子にしてるから、(――あたしのこと、嫌いにならないで。どこにも行かないで。ずっと一緒にいて。込み上げるのは、どこまでも幼く独り善がりな願望ばかり。だけど、願わずにはいられなかった。彼に救われたこの命は、ひとりぼっちで生きていく方法などもう忘れてしまったから。)