治葛静音〆 ♦ 2021/01/06(Wed) 14:33[19]
(どういたしまして。その言葉に己の感謝が届いたのだと思えば、自然と口元には笑みが宿る。ずっと外に出たかった。例えその先に待つものが眩しく優しいだけの未来だけではないとしても、それでも。抱いた希望の中に影を落とす恐怖はきっと完全には消えないけれど、それでも今この足が迷わず一歩を踏み出すことが出来るのは彼のおかげだ。一人で我武者羅に当たって砕けてを繰り返していた時よりも、ずっとずっと心強い。そうして光を頼りに歩みを進め、外に出た瞬間にさざめき押し寄せた感情に何と名前をつけたら良いだろう。目の前に広がる光景は、この場に連れて来られた数年前と何ら変わりはないように思えた。Xの敷地内だって当然現代的なものであるから、視覚的には然程新鮮味はない筈なのに。それでも目に映る誰かにとっての恙無い日常は、治葛の目にはとびきり眩しいもののように見えていた。加えて、肩に軽く触れた温もりに胸の奥が震える。悪戯に向けられた笑みに撫でられた縁が、ゆるりゆるりと融解していく。その瞬間にぼた、と効果音と共に溢れた一粒を皮切りに、今まで必死に閉じ込めていた涙が溢れ出す落涙を止める術は持ち合わせちゃいなかった。)ひぐ、ううう〜……っ、ひ、わあああああん!(可愛げも何もかもかなぐり捨てて子どもみたいにわんわん零した泣き声が、冬の冷たい空気の中によく響く。行こっか、その一言が嬉しい筈なのに、暫く止まる気配のない涙のせいでべしょべしょに濡れた顔で一度大きく頷くので精一杯。)ありがと、くろ太郎。……ありがとお。(そうして差し出された手にてのひらを重ねた瞬間、またぶわりと溢れる涙を止めるのはもうとっくの疾うに諦めてしまった。そうして彼に連れられ進むみちゆきのこと。)…お母さん。(ぽつりと零した声は、彼の耳に届いたかはわからない。もう輪郭すら曖昧になってしまった最後の日の記憶の中で、母も同じようにこの手を引いてくれていた。結果自分は不要な物として棄てられたのだから、あの手の中には今触れている温もりと等しい優しさなどなかったのかもしれないけれど──、)……ねえ。手、離さないでね。もうちょっとだけでいいから。(縋るようにてのひらに力を込めれば、確かに触れられるものがある。それはこの夜に与えられた、たったひとつの祝福のように思えた。)