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(花言葉、幸福な家庭)

梵一期〆 ♦ 2021/02/08(Mon) 00:16[78]

(抜け殻のようだと称される男がいた。ただ自宅と会社を往復するだけの日々を送る男を、近隣住民は口を揃えて「昔はそうじゃなかったのに」「痛ましくて見ていられない」と語る。ゴシップ好きで口が軽いと評判の軽薄な主婦でさえ、触れるのは気の毒だと肩を竦めるらしい。発端は妻が娘を連れて出てった後、共に命を絶ったとの知らせを受けてからだ。元より新興宗教に洗脳されたと囁かれていた女が家を出たこと自体は、周囲も「いつかそうなると思ってた」なんて軽率に会話の肴にしてくれたものだが、しかし、亡くなったと知ってなお口にする者はいなかった。鬱蒼と仄暗い空気が漂う家屋を子どもが面白半分に曰く付きだと広めた噂も、すぐさま黙殺される、地域の腫れ物だった。年齢の割りにひどく老いた男が、軒先で泣き崩れる姿を目撃されるまでは―――。)……パパ、泣きすぎだよ。(高専の正門口、娘の呆れた声もまた潤んだものだった。まだ40代にも関わらずましろく染まった短髪を撫ぜる少女は、男の記憶の中の姿よりもうんと背が伸びて、いとけなさを隠す粧した顔ばせに成長を感じざるを得なかったのだろう。亡くしたはずの娘が生きていて、それを助けたのはすぐそこに控える少年だという。かいなに抱いた娘から離れると、壊れたロボットよろしく礼を重ねに重ね、阿閉託夢をヒーローだと讃えた。事の子細は伏せられたとはいえど、命を救ったと知れればそれ以上の説明を男は望まなかった。そんな姿を、男の半歩後ろから娘が微笑ましく見守っている。立ち会う五条悟もまた、折を見て茶々を入れ、和やかな空気が生まれたろう。高専の実態もまた、知らされることはなかったが、寮生活をしていると分かれば「いつでも遊びにおいで」と自宅へ招待し、あまつさえ「第二の実家だと思ってくれていい」とまで宣う始末だ。娘もまたそれに乗っかるものだから、ふたりが高専を立ち去るまでは収拾が付かなかったかもしれない。)

(雲ひとつない快晴。青々と広がる空に、一筋の煙が立ち昇る。母の魂も、あの煙と共に天へ昇っていっただろうか。葬式は父と娘、ふたりでしめやかに行われた。火葬を待つ間、無機質な部屋で父の手を握る。細長く、しわくちゃな手だ。昔はもっと、力に満ちていたのに。数年ぶりに対面した姿はひどく変わり果てたものだったけれど、ここ数日でだいぶ見れたものになったほうだ。)………ママは教祖様になにを求めてたのかな。自分がもう死ぬってときにも、“贄としての役割を果たしなさい”って。(過日を思い返して胸の奥がぎゅっと締め付けられた。比例するように、父の手を握る力も増す。「パパたちには気づけなかった悩みがあったんだろう」暫し言葉を探すような沈黙を経て、父が出した答えはこうだった。家族なら何でも話して欲しかった、けれど一期もまた母に心の内を曝け出せなかったのは同じだ。)さいごまで、すれ違ってたんだね。(母の死に直面して以来、せき止めていた涙が決壊したように零れ落ちた。ぼたぼたと、大きな粒となって、黒い服へ更に色濃い染みを増やしてゆく。お骨が運ばれてくるまで、嗚咽がひたすらに部屋へ響いていた。赤く腫らした双眸で、父とふたり拾骨を終えると、緑溢れる公園墓地へ向かうだろう。数年前、母と一期の名を刻んだ空っぽの墓へ。骨壷を胸に抱いた一期は父を見上げる。)アトジくん、来てくれるかな。(彼を呼んだのは父だった。荷が重いかもしれないけれど、と前置きをしながらも、納骨に立ち会って欲しいのだと。この親子にとって、阿閉託夢という男は赤の他人でなかったのだ。かといって、親族でもないのに望みすぎている自覚は双方にある。だめでもともと、一期が彼を振り回したのは父親譲りの性格なのかもしれない。――澄んだ冬空の下、佇む英雄の姿があれば、こんな悲しい日でも笑える気がした。あたしはこれからも、もらった生命を繋いでいく。)

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