治葛静音〆 ♦ 2021/02/02(Tue) 01:00[74]
………明日かあ。(濃紺の帳の降りた静かな夜。与えられた自室のベッドの上で膝を抱えて、小さく呟いた。明日、再びXへと帰る。もう二度と近寄りたくないと思っていた場所なのに、まさかまた足を踏み入れることになるとは思っていなかった。けれど代わりに得られる向こう数年の後ろ盾あるというのなら、心が揺れたのも事実。そもそも、拒否権なんてないようなものだったし。膝を抱えた状態でごろんとベッドに横たわり、緩く目を開いたまま今日に至るまでのことを振り返る。たかが一ヶ月、されど一ヶ月。檻の中で飼い殺された数年とは比べ物にならぬ程の眩しく愛しい日々を思えば、きゅうと胸の奥が息苦しさを訴える。嫌な感覚ではなかった。ひとつ、ひとつと記憶を遡って、――次いで思い出したのは、母のこと。もうきっと会うことはないだろう、ただひとりの家族。)……お母さん。(小さな声で呼ぶ。当然、返って来る声はなかった。 本当は、ずっと前から気が付いていた。お母さんは、もういない。この手を引いてくれる人なんて、いない。笑顔と優しさの溢れる温かい家庭なんて大嘘。そうした現実を女が知ったのは、Xに来てからすぐ――或いは、その前からかもしれない。今になってみれば時期こそ曖昧ではあるが、とにかく割と早い段階で、存外現実の見えている齢十余年の少女は母との決別を悟っていたのだった。それでも『いい子にしていればいつか母が迎えに来てくれるかも』という願いを捨てなかったのは、結局は自分のため。希望を捨てれば狭く重苦しい箱庭の中では生きていけないから、半ば自己防衛の手段でもあった。――ならば何故、その希望を断つような真似をしたのだろうと小さく胸裏で自問自答。あの日、彼に思い出の場所に連れて行って欲しいと言わなければ、今もまだこの身は仮初の幸福を追いかけて生きていられた筈。叶わぬ夢を追い続けることを希望として微温湯に浸り続ける選択肢もあったのに、それでも踏み出した理由は何だろう。シーツに散らばる髪の先を茫洋と見つめながら思考を巡らせれば、存外あっさり答えは出た。 立花蓮。彼が、いてくれたからだ。彼に手を引かれ見た世界の鮮烈さを、きっと生涯忘れない。厳しく苦しくもあるけれど、それでも夢を上回る幸福が現実にはあるのだと、彼が教えてくれた。行き場を失った女の道を照らしてくれた人。それだけで、彼に特別を捧げるのには十分過ぎる理由だっただろう。)
~~~~~無理っ、眠くない!(あれこれ考えているうちにすっかり遠のいてしまった眠気からは一先ず目を反らして、勢いよくベッドから起き上がる。そうして枕元に飾る写真に、静かに目を落とした。そこに写るのは、母と自分の姿。たったひとつの、母との思い出だった。今、母はどうしているだろう。どこで、誰と暮らしているのだろう。予想することしか出来ないけれど、確かなのは母と己を結びつけるのは今やこの身に流れる血だけになってしまったということ。母にとって己は不要なのだと、改めて現実を思い知る。じわりと腹底に広がりゆく感情は、今までに何度感じたかもわからない鈍色のもの。――恨めたら楽だった。呪ってしまえれば楽だった。過去に溺れたまま何も見ないままでいれば楽だったのかと思えども、今、踏ん張って立っている。呪うのではなく、前を向きたい。未来が見たい。現実と向き合うたびに治りかけたかさぶたをえいと引っぺがすような新鮮な痛みが消えちゃくれないけれど、それでも明日へ進もうとすることが出来るのは彼のおかげだった。視線を、写真の隣に置いた鏡に落とす。自分と目が合った。)……あたし、ちゃんと可愛い?(鏡の前で、冗談めかしてこれまた自問自答。隣に飾るパンダのキーホルダーだって、当然だんまりだ。彼に助けられたこの命は、彼の前に立つのにふさわしい清廉さを失ってはいないだろうか。人差し指で鏡の中の輪郭をなぞって、静かに目を閉じた。まなうらに浮かぶのは、当たり前みたいに彼のこと。)…嫌いにならないで。いなくならないで。(小さく呟く。それだって本音だ。でも、それ以上に。)あたしのこと、(そこで息を静かに吐いて、震える唇をきゅうと噛んだ。告げたい言葉は、今は胸の奥に仕舞っておこう。“次に会ったら”の仮定が、当たり前に叶うと信じていた日のこと。未来はまだ、ただ眩しさだけで満ちていた。)