西風千鶴〆 ♦ 2021/01/13(Wed) 14:32[13]
(ごめん、とついぞ言わなかったのは、兄の優しさだったのだろう。)
(ありがとうなと微笑んで、わたしがわたしの決断を、誇れるようにしてくれたのだろう。)
(3年前。両親のもとをくり返し、何度も訪ねる男がいた。おだやかな笑みを浮かべながら、救済を説く気味の悪い男。初めは門前払いしていたが、まず先に母が抱き込まれ、それからほどなくして父も、男を拒まぬようになる。お嬢さんを私どもに。もちろん無償とは申しません。ご子息の手術のサポートを。腕のいい医師をご紹介します――。男が並べてみせた対価は、家族が望むすべてだった。)……、 。(中庭の片隅。腹の奥から抉りだすように、千鶴は呪いの言葉を吐く。駆け回る子らのあかるい声が、その咎を覆い隠してくれた。父も母も、もちろん兄も、千鶴を厭うていたわけではない。家族は千鶴を愛していたし、千鶴も家族を愛していた。それでも千鶴はXに居る。彼女本人が望んだからだ。両親と男が話しているのを、あるとき偶然聞いてしまった。そうしていつものように断られ、帰ろうとしていた男を――玄関先で引き留めて、「行きます。」と自ら、言ったのだ。)………お兄ちゃん、元気かな。(手元に視線を落としたならば、栞代わりに本に挟んだ写真の兄と目が合った。春は空気がやわらかいから、冬よりも調子がいいんだよ。そう言って髪を梳いてくれた、ふたつ年上の優しい兄。手術は無事に成功しました。千鶴のおかげで元気になれるよ。届く手紙にはいつも必ず、千鶴への感謝だけが綴ってある。自分のために磔となったやがて死にゆく妹なんて、目を逸らしたいに違いないのに。懺悔したり切り捨てたりすれば、きっとすぐ楽になれるのに。そのどちらをも選ぼうとせず、兄はずっと苦しんでいる。この存在を意識し続け、罪悪感に喘いでいる。なんて不器用なひとだろう。だけどそういう兄だからこそわたしは、)助けてあげたかったの。(ベンチの背に体重をかけ、千鶴は春の紺碧を見上げる。ふりそそぐ光を眩しがり、右の手の甲を額にあてると、記憶の淵に沈み込むようにゆっくりと瞼を閉ざした。)
(おにいちゃん。 うわ言のようにこぼれた声に、手首の金属がチリと鳴く。おまもりだよって結んでくれた、あの指先にいま、触れたい。)