今波燈〆 ♦ 2021/01/17(Sun) 23:00[87]
(高専内で過ごすようになって数週間が経過したともなれば、むすめなりに身の振り方も少しずつ変化を見せる。今日もまたジャスミンを身に纏い、贈れた学習を取り戻すべく通っていた図書室から自室への帰路を進んでいた。自室には何も持ち込みたくなかったから手ぶらではあったものの、ついでに課題を貰いに先生たちのところへ寄ってから帰るのも今日くらいはよいかもしれない。踵を返してそちらに足を向けたのが幸か不幸だったかは、むすめに判断できそうにない。――ふと、目に映ったのは遠くからでも目に留まるようになった彼の姿。見掛ければ自然と眦も下がって頬がゆるむ辺り、むすめにとっての彼の存在が大きくなっていることを示しているのだろう。むすめがそれに気づいているかはさておくとしてであるが。 何にせよ彼の姿を見止めて声を掛けない理由がこの時は見付からなかった。しかし、歩み寄ってくちびるを開いたのとふたりを結び付けた教師のひとりが声を張り上げるのは同時のことだった。「!」慌ててくちびるに手を宛てて息を呑めば、開きっぱなしになっていた扉から近くの空き教室に飛び込んで身を潜める。 何で隠れてるんだっけ?いや咄嗟に出た反射的な行動であって、他意も無ければ後ろめたいことがある訳じゃないんだけど。 誰にするでもない言い訳は、扉一枚を隔てての内心でのみ行われる。)……っ。(よくも悪くも、昔から耳はよい方だ。上向きだった気持ちが、一気に下降する。多分隠すつもりはないのだろうと判じる彼等の話は、容易にむすめに筒抜けとなっていた。昇級の話は、まだよい。否、むしろそれだけの価値がなければならないとさえ思っていた。だってそうだ、けがれなきおとめを――人身御供を求めるXに対抗するともなればかの作戦も生命懸けの侵入だったに違いないし、そも彼の話では呪いも蔓延していた訳だからそう言った意味でも危険が無かったとはお世辞にも言えないだろう。彼の興味や意思云々にかかわらず、任務として与えられての潜入であったこと何て最初に出会った瞬間から伝わっていたむすめにとって衝撃はそんなところにはない。彼らしい口吻に、眉尻も下がって困った風な苦みを含んだ笑みが顔ばせを彩るくらい余裕があったのがその証左であろう。)――。(それでも、やはり言葉が出ない。別れの足音が聞こえるようになったと、いつかの先に覚悟していたことがとうとう近くまで歩み寄って来ただけの話なのに。元より分かっていた、何の力もなければ何の力にもなれないむすめが此処にいられる理由は“保護”に尽きる。それさえなくなってしまえば、今当たり前にある儚いしあわせなんて脆く崩れ去ってしまうことなんて、前々から知っていたことではないか。抜けてしまいそうになった足の力を支えようと扉に背を預け、そのまま床へとへたり込んでゆく。逸る鼓動を落ち着けるかのようにぎゅうと強く右のてのひらで洋服を握り込んだ。漏れそうになった声音を堪えるかのようにきゅっとくちびるを噛み締める。痛みは感じなかった。ただ、枯れていたはずのおもいが込み上げるかのように呼吸が止まったかのような感覚に陥る。歩き去る足音が聞こえた時になって漸く、)……はぁ……。(大丈夫、悲嘆も涙もない。代わりとばかりにぎゅっと瞼を強く閉じて、立てた膝に顔ばせを強く押しあてた。体育座りのような格好になって、胸元の服を握り締めていた手は何時しか両手ともみずからのからだを抱え込むように強くスカートを掴む。深く息を吐いては弛緩して、自嘲するように頬を膝にあてながらぼんやりと虚空を見つめた。)……ばかだなぁ、私。分かってたことなのに。(彼は最初にした約束を、守り通そうとしてくれている。むすめの身の安全を保障して、また彼の日常に戻ろうとしているだけ。今生の別れでも無し、甘受したさいわいに感謝しこそすれ衝撃を受けるいわれもなければ彼等を責めるだけの理由はむすめには持ち合わせていない。それなのに何故、こうも制御しきれぬ複雑な感情がむすめを襲うのだろう。)……そういうことなのかな、やっぱり。 やだなぁ。(彼の葛藤や矛盾も知らず、普段のむすめならば気付けても可笑しくはなかった彼の不服そうな声音さえ理解せず、困ったように零れ落ちる声音は恨み言めいている癖にどうしても隠しきれないあわく色づいた想いが息づいていた。深呼吸をひとつして、両膝に顎を乗せる。両サイドの髪を握って、自然と漏れ出る笑みを浮かべたままむすめの中にある葛藤や矛盾と向き合うことになるのはそれから直ぐのお話。)悔しいね。 ずるいよ、ほんとに。(それでも、出会わなければよかったなんて恨み言紡げそうにも無い。だから、悔いと呼ぶにはいささか弱すぎる過去に思い馳せつつ暫くはここに留まって、気持ちを整えることにしよう。彼等と再び邂逅叶った時、笑って素直に感謝を告げて承知する旨を伝えられるように。すっかり冷え切った両手指の先を、はぁと息を吹きかけてあたためて。)戻らなくちゃ、……間に合うようなら行ってらっしゃいって言う位は出来るかな。(そう、それでもまだ別れは先にあるのだ。行ってらっしゃいが紡げずとも、お帰りなさいを紡ぐ時間ならきっとあるだろう。緩慢な仕草で立ち上がり、スカートの埃を払って教室を後にする。ジャスミンの残り香だけが、むすめがいた証のように揺蕩っていた。)