七竈王哉〆 ♦ 2021/02/17(Wed) 23:29[82]
(呪術師には独身が多いらしい、――というのはいつ聞いた話だったか。いつかの昔の学生時代、後輩と結婚観について話したことも脳裏を過ぎる。数年前の己は一人で生きて一人で死ぬものだと思っていたのに、今はどうだ。目に見えぬ証を欲しがって、それを生きる為の縁としようとするのだから人は変わるものだと改めて思い知る。男を変えたのは、間違いなく彼女だった。彼女の歯が薄い皮膚に突き立てられた瞬間に亀裂のような笑みを浮かべ、左手を見下ろす双眸は状況に似合わぬ穏やかな色を映じていたに違いない。そうして揃いの約束を左手に宿したのなら、彼女の願いに耳を傾け一度だけ頷いてみせた。国を、世界を揺るがす混沌の夜に飛び込んでいこうというのだ。どう足掻いたところで無傷では終えられないだろうし、彼女の元へ再び生きて戻るとも言い切れないというのは考えずとも明白だ。それでも男は笑って、最後に一度その体躯を抱き寄せた。)俺は絶対帰って来る。待ってろ。(これは呪いだ。これはまじないだ。己が身に最悪が訪れたその時、この言葉が枷となるだろうということを知っていて口にした。ならば何も告げないのが優しさだろうと思えども、彼女を縛り続けるこのに躊躇いはなかった。だってもう、嫌という程理解している。互いが互いの存在なしには生きられないということを。たとえ行き着く先が奈落の底であれ、一度交えた道を再び別つ術など未来永劫持ち合わせていないのだから。最後に薄い唇に噛みついて、小さく笑って夜の街へと飛び出した。)行ってくる。
(記録──2018年10月31日 19:58。西風千鶴と別れ現着。帳外にて日下部班と合流。指示に従い待機していたが、改造人間が暴れ始めたのを契機に帳内へ突入。狗巻、立花、近嵐とも一時合流し一般人の避難誘導を最優先に行う最中、伊地知と連絡が途絶える。救出を命じられ一時離脱、単独行動となる。伊地知の元へと向かう道中、改造人間に行く手を阻まれ戦闘開始。)……く、っそ!斬っても斬ってもキリがねえ……ッ!(――本来、補助監督となった男に戦闘は許可されていない。しかしそれは、あくまで“一応”の話だ。合流の際に別の補助監督から渡された呪具の刀と花札が、言外にそれを物語っていた。数多の改造人間は一体一体を見れば格下であるし、例え数ヶ月のブランクがあれど男が後手に回るような相手ではなかっただろう。けれど数が膨大過ぎる。加えて一般人を守りながらの戦闘はどうしたって守りに回らざるを得ないから、長引く戦闘が次第に呪力の枯渇を訴え軋む体が悲鳴を上げ始める。もう暫く持ち堪えれば救援が来る可能性だってあるが、それを待っていればこの周囲の一般人への被害は膨れ上がるだろう。)邪魔だ、どけ!!(叫び、刀を振るう。逃げ惑う一般人との間に割って入る度、体に裂傷が増えていく。避けた皮膚から血が溢れ、霞み始めた視界は呪力だけでなく体力も底を尽き始めている証拠だった。柄を握り指先が冷たく温度を失っていく感覚から、もうそろそろ限界が来るだろうというのは今までの戦いの中で得た経験則だ。このままでは任務の遂行どころか、己の命だって危うい。彼らを見捨てて駆け抜けるか、それとも――瞬間、脳裏に掲げた天秤は考えるまでもなく片側に傾くのだから、自嘲めいた笑みが口端に宿る。今この場で目の前の命を見捨てれば、もう二度と彼女の目を真っ直ぐ見られないような気がした。記憶の中で、同時に母の姿も翻る。救われ続けた命の価値を、今ここで、証明したかった。一体ずつ祓っている体力はない、ならば残る手段はもう一つだけ。)――骨牌幻影、『呼意呼囲』!!(血濡れた指先で、内ポケットから取り出した山から札を引く。もう二度と、術式を使うつもりはなかった。彼女を唯一とするのだと決めた時から、呪術師であることは辞めた筈なのに。――けれど人を救うことも出来るのだと教えてくれた彼女が、男を呪術師にした彼女が、この先の不幸を享受するのだと言ってくれるから。目の前の命を諦める道を捨て、札を引き続けた。コンクリートに囲まれた夜の渋谷に花弁が舞う、雷光が落ちる、瞬きの間に空間を作り替える術式が周囲の呪霊を纏めて祓うのを、霞む視界の向こう側に捉えて笑った。数多の術師が命を賭して戦う中、この戦闘は世界の未来を思えば何ら取るに足らない物だと知っている。それでもこの手で守り抜いた命があったのなら、彼女にも母にも、胸を張って会いに行けるような気がした。ぐらりと視界が揺れる、倒壊していくビルが見える。遠くで爆ぜた炎の正体はさて何だったろう、――答えも知らぬまま、意識が途絶える。)
(――春の陽光が窓から差し込み、室内を淡く優しく照らしている。平素であれば目を伏せればすぐに眠りに落っこちてしまいそうな麗らかな日差しの中、珍しく緊張した面持ちの男が身に纏うのは白のタキシード。柄じゃないと思えども、今日の彼女の隣に並ぶのならばこれ以外にあり得なかったろう。千鶴、入るぞ。言ってドアを数度ノックして、扉を開けばその先に捉えた彼女の姿に思わず息を飲んだ。純白のドレスを纏う彼女は、今日まで男が見たいきものの中でいっとう美しい姿をしていたから。もうあと数刻もすれば、郊外の式場でふたりの結婚式が執り行われることになっている。彼女の家族、それから己の父親、加えて高専時代の同輩達の姿も参列者の中にはあるだろうか。緊張すんなよと零したのは所謂照れ隠しの範疇で、彼女に見惚れたのを誤魔化すように笑って距離を詰めたならその頬に左手を伸ばした。指先がなぞる稜線は、今日も愛しい女のかたちをしている。――幸せだ。遍く幸福を集めた縮図に眦が緩み、男だけの幸福を胸に抱きたがる。彼女を胸に抱き寄せ、胸裏でひとり願った。このままずっと彼女とふたりで、幸せに、)
(記録――2018年11月1日未明。瓦礫の中で目を覚ます。倒壊に巻き込まれ右腕を欠損。建物から這うようにして脱出するが、歩行もままならずその場に頽れる。幸か不幸か、霞む視界はまだ己の状態を視認していない。出血多量によるアドレナリンの大量分泌が、男から痛覚を奪っていた。)……は、 あ……ッ、ぐ、(呼吸をするたび全身が軋む。血濡れた体はきっと酷い有様になっているのだろう。されど斯様に無様に現世にしがみ付く姿を晒しながらも、指先が生掠め続ける限りは諦めるつもりなどなかった。きっとあのまま目を閉じていれば、幸福な夢に浸って死ねただろう。けれど仮初の幸福など、いらなかった。霞む視界に映るのは、夥しい死体の数。倒壊した建物。たった数時間で東京が崩壊したのだと悟り、同時にこれから訪れる夜の闇を思い知る。けれど夢うつつの幸福より、彼女を道連れに進む地獄を男は選び取った。何度も意識が途切れてしまいそうになる中、視界に映る左手だけが救いだった。この身にはまだ、彼女が刻んだ約束が残っている。それが、男をこの世に繋ぎ止める唯一だ。)……千鶴、 千鶴。(それしか知らぬように、唇がただ一人の名を紡ぎ続けた。何度だってその名前を呼ぼう。病める時も健やかなる時も。彼女がすべてを受け入れてくれると言うのなら。何度だって降り立ってみせよう、その心に。)
(記録――2018年11月1日未明。救出された男は首都高速3号渋谷線の渋谷料金所に搬送。反転術式により命を繋ぐ。以降の記録は生ある限り、彼女と共にある。)